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2007年10月 |
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第二回九条の会総会開催●自民党の憲法草案を断念させる活動に 地域の人達との結びつきを大切にしましょう! |
我孫子市九条の会は9月30日(日) 午後1時30分から湖北台近隣センターで第2回総会を32名の会員の出席で行いました (会報10号では「第1回総会」としましたが、「9条の会 発足のつどい」を通算して今回を「第2回総会」としました)。 |
平和のための自衛隊を考える |
軍隊をなくす。唐突ですが、これは私の希望です。まだ遠い夢のようなことですが戦争をなくすためにはぜひとも軍備をなくすことが必要だと思います。27万人の自衛隊、5兆円の国防予算を、どう転換できるのか。 単に自衛隊反対、自衛隊違憲と主張しても、相手との対話と納得がない一方的な主張では意味がないと思います。意味がないばかりか、北朝鮮の脅威を不安と感じている人々にとっては、理念的な非武装論はわかりにくく、逆に具体的な自衛軍創設に魅力を感じてしまうかもしれません。 ですから、ここでは非武装を語るのではなく、具体的に自衛隊改組案を示していければと思います。自衛隊をどう変えていきたいか。私はまず、女性自衛官も性暴力に会わず (注1) 、男性自衛官もよりストレスの少ない、人間が安心して働ける自衛隊になって欲しいと思います。そのことが自衛官の家族に安らぎを与え、国に住む人々を大切にする第一歩になると思うからです。私の二人の友人も現役の自衛官。彼らが安全に、誇りを持って九条を擁護する責任 (注2) を果たせる自衛隊であって欲しいです。 次に、武装したままでの海外派遣を即時中止すべきです。私は自衛隊がイラクで武装米兵を空輸し、インド洋で米軍艦艇や給油艦に給油している軍事協力は違憲だと考え、政府を訴えています。 政府の派遣政策には納得がいかず、危険な武装兵空輸を続ける航空自衛官の方々の安全を思い、撤退を切に望みます。どうしても海外派遣の「国際貢献」をしたいのであれば、非武装での海外派遣に限定すべきです。それはたとえ災害救助といえども、軍服のままの多国籍軍が駐留することは住民に脅威を与えるという現地の声があるからです (注3 ) 。被災地の人々のためにも、圧迫や威圧にならない災害救助をして欲しいのです。 そして、せめて最小限の自衛に戻して欲しいです。千葉県習志野を始め全国に配備されようとしているパトリオットミサイル。訳して愛国者弾。そもそも国を愛することとは国家を愛することではなく、国内外の命を愛することだと思う。社会保障費を切り詰めながら1発6億円ものミサイルを配備することは、命を大切にしているとは言えません。 さらに、何よりも生命の遺伝子を傷つけ続けている原発を廃棄したいです。天災や人災で原発が爆発しませんように。これは外敵からの国防を強化する前に考え直すことです。原発50基をかかえる日本に武力での国防など理想論でしかありません。 また、ジュゴンの海やヤンバルクイナの森、鎮守の森を潰して、新しい米軍基地をつくることは阻止したい。岩国市庁舎建設の約束を平気で破り、非協力の自治体をあからさまにイジメ、有刺鉄線を張り、米軍住宅を建て、掃海母艦「ぶんご」で沖縄辺野古浜の反対派を威圧する国なぞ、決して美しくないです。国民の大半が基地建設に反対し、老若男女が座り込みの阻止を続ける中での、自衛隊のこの派兵は、もはや、全く国民のためではないと思います。 それから、護憲派が合意した上で、武器を持たない災害救助隊か国境警備隊、平和部隊等、一致した自衛隊改組案を提案できればよいと思います。 護憲派は単なる「憲法改悪反対」だけではなく、未来像、具体的な代替案を示す必要があると思います。ただ、2001年12月22日午後10時13分に海上保安庁の船が、領海外の海域で「不審船」を撃沈し、戦闘により24名を殺害してしまったこと (注4) を忘れてはならないと思います。 最後に、国をまもる、ということについて考える原則に立ち返りたいと思います。政府のプロパガンダやメディアの報道では、武装して実力で国を守るのだ、武力による威圧や威嚇、抑止による力の政治が当然だ、という考えが示されることがあります。しかし、憲法前文と第九条と前文では明確にこの考えを放棄し、安全を保持する術と原則を示しています。 ・憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」 ・憲法第九条「・・・武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 今後も自衛隊や安保条約、天皇制のこと等を考えていきたいので、いろいろ教えてください。 (豊田 義信) |
(注1)「私たちは、基地の中で、21歳の女性自衛官が、上司である自衛官により性暴力を受ける事件が発生したこと、さらにその後も、加害者に対する厳正な処罰と、被害者本人に対する被害回復のための速やかな措置が取られず、むしろ被害者に対する不当な扱いが続いていることに対して人権回復のために起こされた自衛隊を相手とする国家賠償請求訴訟を支援しようと会を立ち上げました。」 『女性自衛官の人権裁判を支援する会』http://jinken07.10.dtiblog.com/ (注2) 憲法第99条では、天皇や大臣、議員、公務員が「尊重し擁護する義務を負う」べきと定められています。その憲法の九条は私たちからの、政府に対する非武装・不戦の命令です。 「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し(前文)」、 (注3)「スリランカの元研修生は1月末の段階で次のように書いてきています。『こちらの情勢は、アメリカ海軍をはじめとして、インド軍、パキスタン軍、カナダ軍がすでに進駐していて少し緊張状態の中にいます。(中略)このアメリカの進駐は、私たちにとって12月26日の大津波よりも破壊力のある巨大津波のようです。』」> 佐藤光「災害と平和」、平和を実現するキリスト者ネット『ニュースレターNo.55』2005年4月10日。 (注4)「緊急声明 海上保安庁による「不審船」撃沈を糾弾する」『平和憲法を活かそう府中市民連合』2001年12月23日、他。 |
●参考メモ〜軍隊の本質● 侵略された時に、軍隊があってよかったことはあったでしょうか?軍隊は、もちろん国民を守るために存在している、という人もいるでしょう。しかし、戦闘状態になった時、軍隊は国民を守ることよりも戦争に勝つことを目的としているとわかるでしょう。戦時中のことを調べれば、他国でも日本でも、軍隊は自国民をも守ってくれていません。 市民意見広告運動『武力で平和は創れない』2006年、6ページ。 『軍隊はいざというとき私たちを守ってくれる』というのは幻想であり、誤解だと思います。なぜなら、軍隊というものは指揮官の命令の下に戦争を遂行するための組織であり、政府とその指揮系統を守っていくことを第一義とするからです。非常事態にあっては、作戦の妨げになるものはすべて排除するのが軍隊で、それが彼らの『国を守る』やり方なのです。たとえば沖縄戦では、洞 窟に避難した一般住民を日本軍が追い出したり、泣き声を立てる赤ん坊を母親に殺させたりしました。旧『満州』では、関東軍が避難民を置き去りにして、真っ先に逃げ出しました。 ●参考メモ〜非武装で侵略者から国を守れるのでしょうか?非武装で攻め込まれることはないのでしょうか?武装に非ず なんて大丈夫なのでしょうか? 「非武装で侵略されたらどうするのか?」という問いへの一つの意見があります。市民意見広告運動『前掲書』6-7ページでは民衆レベルの抵抗として、「どのように抵抗するかを決めるのは私たち自身であり、それぞれの信条に従って行動するべき」「中には、自衛戦争、武装蜂起、ゲリラ攻撃といった実力行動 の道を選ぶ人もあるかも」「そのような場合でも、私たちは暴力(武力行使)が唯一の抵抗手段とは考えません。第二次大戦時、ナチス支配下にあったヨーロッ パの民衆は、武器を手にする者もしない者も、共に協力し合って戦いました。非暴力・不服従の原則を貫きながらも、圧制者に対して有効な抵抗を続けることは十分に可能です。とりわけ武力の上で圧倒的な差があるとき、非暴力・不服従のほうがより大きな力を発揮できることは、強大な大英帝国から独立を勝ち取った インドのガンジーの闘いの例を見ても明らか」と述べています。 |
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わたしの八月十五日 |
九州で迎えた平和 松原 勝 |
1945(昭20)年8月15日、私は福岡県の羽犬塚町(現 筑後市)で九州防衛の軍務に就いていた。すでに本土防衛の橋頭堡とした沖縄を失った軍部は、九州を防衛の前線として部隊を各地に駐留させた。1944年9月に名古屋師団野砲三連隊に現役入隊した私は、山砲隊に配属され、翌年の7月新たに召集された兵らと共に九州へ転属となった。 部隊は小学校を兵舎にあてた。もはや臨戦体制であった。軍靴は決戦用に備え地下足袋を履いた。軍馬はいなく、四百瓩もの山砲を演習場まで兵が交互に引いた。 九州の陽はぎらぎらだ。演習は干上がる汗で塩が吹きでる程の激しいものだった。年配の応召兵は喘いだ。しかも夜には、両足を持って振りまわすリンチが待っていた。見かねた村人達から「応召中の肉親を見るようでつらい」と苦情が持ち込まれ、部隊はリンチ禁止令をだした。8月10日頃、広島への特殊爆弾投下の報が聞こえてきて、部隊に秘かな動揺が走った。 8月15日正午、私たちは炎天下に直立不動で、ラジオからの天皇の戦争終結宣言を聴いた。夕刻、部隊長は全将兵を前に「日本は降伏した。軽挙盲動に走るな」と訓辞をし、宮城遥拝と戦役者の黙?で締めくくった。 |
昭和20年8月15日とその後 浅見 輝男 |
昭和20年は冷害の年であったが、8月15日は暑い日であった。埼玉県立不動岡中学校1年生であった私は、緊急召集によって学校に行った。当時、個人宅に電話がある家は商店ぐらいであり、友達が連絡しにきてくれた。皆が集まった12時に、天皇による「終戦」の詔書放送があった。雑音がひどくてほとんど聞き取れず、「たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび」などという言葉が切れ切れに聞こえただけであった。しかし、日本が戦争に負けたということだけは分かった。皆、特に感想を言うことなく黙々と帰宅した。 数日して灯火管制が全面解除され、明るい夜が戻ってきた。8月31日までは夏休みであり、宿題もないので、小説を読んだり、釣りをしたりしてのんびりと過ごした。 昭和20年は冷害の年であり、米の収量は公式には1ヘクタール当たり約2060kgであり、前年の3分の2程度であった。敗戦直後であり「強制的供出」が機能しなかったことも公式の収量低下に響いたと思われる。(「ジープ供出」といわれた米軍憲兵を伴った強制供出がその後強行された)。海外からの引揚者も食糧不足に拍車をかけたようである。したがって、翌昭和21年はひどい食糧難に見舞われ、田舎のわが家も米のない日が続いた。 これに便乗したのが、米国の余剰農産物の日本への売り込みであった。この政策に国内でも、慶応大学医学部教授の林 髞(タカシ)、厚生省、朝日新聞などが提灯持ちをした。「米食をすると頭が悪くなる。パン食をすべきである」というのが彼らの言い分であった。学校給食にパン食を導入したことが、その後の日本人の食生活に著しい影響を与えたことは周知の事実である。 農業研究者と農民の努力によって、米の収量は著しく上昇したが、その頃から米の消費が減り、現在、水田の約3分の1が耕作されていない、一方で、日本の食糧自給率がカロリーベースで39%になった。これらの原因は、戦後の米国の政策とそれに便乗した人々の責任であろう。 昨今の政治状況をみると、戦後一貫してやられてきた間違った政策がついに破綻したと見ること出来ると考えている。 |
訃 報 若桑みどりさんご逝去 |
新聞報道等でご存じと思いますが、我孫子市九条の会の呼びかけ人のひとり、西洋美術史(とりわけイタリア・ルネッサンス)とジェンダー(社会的性差)文化史の研究で知られる若桑みどりさんが10月3日早暁、急逝されました。パソコンに向かって仕事中のことだったそうです。急性心不全と伺いました。まだ、71歳でした。 若桑さんは昨年4月23日「我孫子市九条の会 発足のつどい」で「憲法九条と男女平等を定めた二十四条について」の記念講演をされました。若桑さんは樋口恵子さん、野上八重子さんらとともに男女共同参画の推進活動や、ジェンダーフリーバッシングへの抗議活動を積極的にされており、九条の会発足のつどいの講演でも新自由主義経済を促進する政権下で軍事化とジェンダーバッシングが軌を一にして襲いかかってきている現代日本を明快に分析されました。 「愛する人のため」に国を守る男が男らしいというイメージ作りの風潮に対して、「愛するものを守りたいならば戦争をしないことです。」を結語として講演を終えられたことが、今、強く印象に残っています。 心からご冥福をお祈り申し上げます。 |