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2009年9月 |
総会に皆で参加して、話し合いましょう! |
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「海外で戦争をする国」にさせない−憲法九条を守り、生かすために 第45回総選挙では10年間続いた自民・公明政権が、国民の厳しい批判を受け、歴史的大敗を喫して退場しました。そして民主、社民、国民新3党による連立政権が新たに樹立されました。 今回の総選挙では、自民、公明、民主、国民新など超党派の国会議員、元議員でつくる改憲派の議員集団「新憲法制定議員同盟」(会長:中曽根康弘元首相)所属の衆議院委員が、139名から58名へ と大量落選し激減しました。しかし、国民投票法は来年5月18日にはいよいよ施行されます。改憲派議員集団が大量落選したからといってもとても楽観できる状況では決してありません。 今、政権交代という激変する情勢の下で、憲法九条を守り生かす運動にいっそうたくさんの人が参加していくことこそが。最も重要な課題になってきています。 |
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我孫子市九条の会 第4回総会のお知らせ | |
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●今年の総会は ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 落語家 橘家 扇三さんが ゲスト出演します。 創作落語「長屋の憲法談義」を披露されます。楽しみながら憲法問題を考えて、まずはウオーミングアップ。それから議題に入ります。 |
とき:10月24日(土)午後2時 開会 |
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《主な議題》 T 1年間の活動をふり返って U 活動方針について 活動計画、地域の活動,会員の拡大 V 組織体制について 運営委員会、事務局、各委員会構成 会報、ホームページなど |
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−2009年原水禁世界大会長崎大会に参加して− | |
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オバマ演説の内容を具体的に進めるのは 私たち自身の課題 憲法9条は世界の九条 |
8月7日核廃絶を目指す原水爆禁止2009年世界大会・長崎大会が開かれました。 開会総会 は7000人の規模で、海外からは28カ国、83名の方が参加しました。今回は国連からも代表が参加しました。以下は我孫子市代表の一人として世界大会に参加した運営委員 岩井 康さんのレポートです。 |
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はじめに歴史的な原水爆禁止2009年世界大会・長崎に皆さんのご支援をいただき、参加できましたことを御礼申し上げます。 |
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「9」の日 街頭署名活動のご案内
10月9日(金)午後3時〜4時 |
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原稿を募集しています! 戦争体験を次世代に伝えていきませんか。かけがえのない命の尊さを子どもたちに伝えていきませんか。「戦争を知らない子どもたち」も65歳になります。 2007年春に武田 敦 さん(首都圏青年ユニオン副委員長)を我孫子市九条の会が講演にお呼びしたとき、20代の彼の発言で忘れられない言葉があります。「自分のことで恐縮だが、祖父が長崎の被爆者で、被爆者の人権運動をしていたので、幼少の頃から集会に連れられて参加していたし、祖父の後ろ姿を見て、9条の大切さを実感してきました。そのことが今の活動に参画していった根っこになっていると思います。ぜひ、皆さんもお孫さんを強制的にでもそのような場所に連れ出したり、戦争の悲惨さを話してあげてください。(要旨)」大勢の人の前でしゃべるのはちょっと苦手な彼がいちばん力強く生き生きと語った言葉です。 前置きが長くなりました。あなたご自身の戦争体験、ご両親やごきょうだいから聞いたことを「我孫子九条の会」会報にどしどし投稿下さい。絶対に風化してはいけない日本人の記憶です。よろしくお願いします。 |
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オバマ大統領が、米国の歴代指導者として初めて「核兵器廃絶」を明言し、核廃絶を望む声が世界中で新たに動き出しています。一方、我国日本では、「戦争のない世界を」という世界の流れに反して、「憲法9条」を改悪し戦争の出来る国にという動きが強まってきているのも事実です。 64年前、広島・長崎に原爆が投下され、生きとし生きるものの多くの命が奪われた8月。戦争を二度と繰り返させてはいけない、「憲法9条」を守り抜かなければならない、みんなで手をつないで守っていこう!!と「我孫子市九条の会 うたごえ喫茶」第1回が8月8日(土)湖北駅前レストランポワールにて開かれました。 当初はどのくらいの方が集めってくれるか心配でしたが、座席数50名だったため、数名の方にはお断りするほどの大盛況でした。お断りした方、申し訳ありませんでした。 レストランポワールは、ご主人の手作りの野菜をたくさん使った南プロヴァンス料理でした。青じそジュースなどもお手製で、レストランの雰囲気もとってもよく、生ビールもおいしく、うたごえ喫茶を盛り上げてくれました。ありがとうございました。 うたごえ喫茶をリードしてくださったのは、松戸の「はるかぜ合唱団」の3名の方です。ご自分たちの合唱団はもちろんのこと、常磐線沿線地域にうたごえを広めようと、運動をおこなっていて、今回もほぼボランティアで協力してくださいました。3時間ずっと歌とアコーディオンで盛り上げてくださりほんとうにありがとうございました。 集まってくれた方々も、メッセージ付きのリクエストを積極的にどんどんしてくださり、途絶えることなくレストランに活き活きとしたうたごえが響いていました。 みなさん、よくうたを知っていることに驚き、みなさんがうたごえと共に平和を求め、また一人一人の人権を守るためにたたかってきた姿を想像して感動していました。 私は、60年安保闘争も70年安保闘争も砂川闘争も知りませんでした。うたごえ運動のことも長年知らずに生きてきました。60数年前に「うたごえは平和の力」と、うたごえ運動が全国に広まり、たたかいの中にうたごえがありました。そんな歴史をもっている多くの諸先輩方のお力をかり、新たにうたごえ運動を知った方も、ここ我孫子の地で「我孫子市九条の会 うたごえ喫茶」を通して平和への力が強く広く広がってゆくことを願っております。 今回、参加された方の中から、新たに4名の方が『我孫子市九条の会』に入会されました。今後も「我孫子市九条の会 うたごえ喫茶」を定期的に開催していこうと思っています。次回は11月頃に予定しています。ともに「我孫子市九条の会」を広げ、9条を活かしていきましょう。 参加してくださった方々、ご協力してくださった方々、ありがとうございました。 (「うたごえ喫茶」実行委員 I・M) |
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《参加した方からのメッセージ》 | |
◆当日、午前は所用があり30分ほど遅れて会場であるレストランの扉を開け、びっくりしてしまいました。私の掛ける場所があるのかと、戸惑うくらいに会場は満席の状態でした。みなさん、にこやかに「はるかせ」の方のリードでとても楽しそうにうたっておられました。50人に余る人たちが一同に集まってそれぞれが、穏やかに屈託なく寄り添い合唱している姿のなんと楽しそうな事。誰も堅苦しいことは言わず、「九条を守ろう」と集まった強い連帯感に今までにない新しい息吹と流れを感じました。 こんな楽しく活き活きとした活動の有り方が、我孫子の中で多方面に広がっていけばいいなぁ〜と心に想い、私も大きな声で好きなうたを歌っていました。 最後になりましたが、監事の皆さんのご苦労はたいへんであった事でしょう。ほんとうにお疲れさました。次に期待しています。 (HMさん) ◆昔懐かしいうたごえ喫茶のような機会があれば、参加したいと思っていた矢先、『我孫子市九条の会』でやって下さると聞いて、この日を夫婦で楽しみにしていました。タクシーとバスを乗り継いで会場へ。沢山の歌と平和を愛する人々が集まり、大成功でしたね。はるかぜの方は、声も美しく、歯切れも良くて、楽しい司会でした。夫は「里の秋」をリクエストし、マイクも握り、皆さんとご一緒に歌うことができました。目が不自由になり、出かけることもおっくうになっていた夫ですが、童謡が好きなので、歌える歌がたくさんあればいいなと思っていました。もう少し知っている歌を歌いたかったようです。私は、久しぶりにいい歌を沢山歌えて、満足しました。その上大好きな「一本の鉛筆」を美しい声で歌っていただき、心にしみました。歌で癒され、つながり、平和を築く力が広がるといいですね。夫はこの機会に『我孫子市九条の会』に加入ました。 これからも時々こんな会を設けていただけたらうれしいです。実行委員の皆さんありがとうございました。(TNさん) ◆「歌声は平和の力」という言葉が交わされ始めたのは、たしか 1960年代の「安保改定反対闘争」の時からと記憶している。それ以前の 1950年頃「レッドパージ」で自由と民主主義が封じ込められた時から、個人の家で行う5人〜10人のサークルの会が、集まると楽しく歌い話し合った。それが安保闘争での歌声運動へと発展し、うたごえ喫茶という商業ペースの店も生まれるほどに市民権を得たのだと思う。湖北台で店を借り切っての「うたごえ喫茶」に参加 すると、私も身を置いた過ぎ去った歌声運動の流れが自然に蘇る。再び安保闘争のような大きな歴史の流れの足音がひたひたと聞こえてくるような気がする。ほんとに楽しく元気が出るひとときだった。お世話頂いた皆さんありがとうございました。 (YTさん) |
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◆終戦記念日に寄せて◆ | |
戦争は嫌、もう二度と経験したくないこと 3月10日の東京大空襲の夜、たくさんの人が着のみ着のまま逃げてきて大惨事になったことを知り、東京にはいられないと、姑と4歳、1歳の二人の子を連れて、富山県高岡市の実家に疎開しました。幸い、高岡は空襲にあわずにすみましたが、5月末東京の家が燃えたことを知り、姑と二人泣きました。実家にはすでに兄嫁も疎開していたので、叔父の家の2階に置いてもらいました。毎日食べるものを工面するのが大変で、近くの畑の取り残しのジャガイモ(今考えると叔父たちがわざと残してくれたものかもしれませんが)や山の草もとってきました。ある日、おじがお米をざるにいれてくれました。それまで、わたしは、「すきなだけとりな」と言われてもよその家のおコメには手を出せなかったのです。ところが、体を壊して復員してきた叔父の息子が、米櫃の表面に字を書いていたので、私がお米をとったと思った息子が、それまで以上に、冷たく当たるようになったのです。その当時は、知らなかったのですが、後からそんな話を聞かされて、早く戦争が終って、東京へ帰りたいと思う毎日でした。ですから、敗戦の日もあまり感慨もなく、防空壕が残っているというので、急いで東京へ帰ってきて、焼け跡に野菜などを一生懸命作って暮らしました。食糧難は、戦後のほうがひどくて、"買い出し"をして取り上げられたり、さつまいもを担いで逃げたりしました。あんな馬鹿な戦争は二度としてはいけません。 Y・S(94歳) |
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傷病兵の眼鏡の黒と衣(い)の白は消えゆく記憶に今も鮮(あらた)し 1944年生まれの私が物心つき初めに見た敗戦直後の街の景色を、鮮明に今も覚えています。 母と祖母と買い物に出かけた時は、いつも新宿駅からデパートまでの数百メートルの路端に、物乞いの人々が列となってうずくまっておりました。駅階段下には白い病衣の敗残の兵士たちが、片腕片眼でアコーディオンを奏で、片足の人が募金箱を抱え、数十人が物乞いしていました。そのなかで両腕両足を無くし、黒めがねの方が仲間に支えられて物乞いしている姿は今も忘れることができません。傷痍軍人の列を抜けると一般の人たちの列で、最後は老人と子どもたちが座っていました。幼子二人をつれて隧道のじめじめした側溝脇に座っていたおばあさんの前では、もう哀しくて一歩も歩けないようになってしまいます。 年に数回の「お出かけ」ではデパートでの楽しさと、街上の哀しみとを味わいました。 小学校に入ると、親を戦争で亡くして施設に育てられている級友が10人くらい、片親の人、朝鮮人の子どもが5〜6人いて、みな発育が悪く貧しかったです。1年生の頃、劇場映画でアジア大陸で非業の限りを尽くした日本軍人の姿を見て、「なぜ日本は戦争をしたのだろう。大きくなったらアジアの人たちに謝りたい」と思うようになりました。そして担任の女先生の市会議員の選挙演説を野原で遊びつつ聴いて、男女同権の民主主義に感銘しました。 敗戦後の日本の風景は、腕白少女の私に【戦争について、民主主義について考えること】をなさしめました。そしてわたしは当時のわんぱくっ子の魂のまま老いつつあるようです。 H・S |
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