![]() |
2009年12月 |
我孫子市9条の会 第4回総会終わる |
|
|
|
10月24日(土)、我孫子市9条の会 第4回総会が開催され、31名の参加で提案された・経過報告・会計報告・活動の進め方・新しい運営委員体制等々を承認し終わりました。 |
|
落 語 |
|
![]() |
|
「長屋の憲法談義」 橘家 扇三さん |
|
総会の前座として取り組まれた落語「長屋の憲法談義」橘家扇三さんの語りには思わず“クスリ”“爆笑”と大変な評判でした。「落語を楽しみに来たのに遅れて残念」という会員もいました。「またの機会に古典落語と二題くらいはやってもらいたいネ」という声も。今後の企画の中で考えていきます。 | |
《参加してください!!》 |
|
運営委員はどなたでもなれます。 憲法を守りたい、9条を活かしたい!と思っている方! 共に広げる運動に参加しませんか! あなたの参加をお待ちしております。 あなたの意見・想う事も募集!! |
|
九条は今 |
|
大幅後退の改憲勢力 | |
総選挙の結果、自民党を中心に、これまで憲法改悪の中心勢力であった「新憲法制定義員同盟」(改憲議連)のメンバーが139名から58名へと大幅に減った。 憲法改悪の中心点(自民党の)は第9条と改憲手続きにあった。来年5月には「憲法改定に関する手続法」が発効する。いわゆる国民投票法である。 「改憲議連」が急いできたことの一つに国会内での「憲法審査会」の発足がある。ここで改憲案を審議し、衆参両院で全議員の3分の2以上の賛成があって、はじめて国会が憲法改定を[発議]し、次に国民投票となる。 「憲法改定に関する手続法」は、自公政権による強行採決で[成立]させられた。このため憲法審査会の規則も制定されず、審査委員も決まっていない。総選挙の結果、国会内の「憲法審査会」の発足のメドは立たなくなった。 |
|
急浮上した新たな解釈改憲の動き | |
「国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しないというのが、私の憲法解釈です。」(2007年 小沢一郎 当時は民主党代表、雑誌「世界」の論文でアフガニスタンの国際治安支援部隊・ISAFへの参加を主張して) 民主党の新しい政権が憲法9条をめぐって、様々な国会答弁をしている。 「政府による憲法解釈についても内閣が責任を持って行う」(11月2日 衆院予算委 鳩山首相) 「政府内の憲法における解釈の判断は、時の閣僚によって構成する内閣によって判断する」(11月5日 平野官房長官) 昨年の国会では、現経済産業大臣 直嶋正行氏(当時、民主党政調会長)は「政権に就いた際には(憲法解釈変更の)作業に着手する」(2008年10月20日)と答弁している。 “脱官僚”を旗印にした新しい政権が「国会改革」を進めている。官僚の答弁を禁止したことの賛否は別にしても、政府特別補佐人として国会で発言してきた、公正取引委員会委員長・人事院総裁・内閣法制局長官の3人の内、法制局長官だけを答弁からはずすと言われている。 「憲法上、許されません。」と内閣法制局長官が国会答弁するシーンを何度も見てきた。自民党の歴代内閣が憲法9条を解釈によって変えようとしたとき、自衛隊の海外派兵に手を貸しても、ギリギリのところで海外での武力行使まではストップをかけてきたのが内閣法制局長官答弁であった。 「官僚答弁」禁止の国会改革の最終目的が、その時々の内閣の判断による、憲法第9条の骨抜きにあったとしたら“解釈改憲、ここに極まれり”だ。 9条を変えるべきではない!この声は国民の一貫した多数意見となっている(読売新聞の憲法意識調査で16年連続で多数意見) |
|
憲法を守れ!9条を変えるな!の声をもっとあげ続けていこう!! | |
「憲法9条の解釈をこの内閣において現在のところ変えるつもりはない」(鳩山首相 11月4日衆院予算委) この立場を後押しする世論の力が大切ではないだろうか。(11月9日 N・T) |
|
《9月9日を“九条の日”にしよう!》 |
|
第1回運営委員会(11月12日)で総会での提案を受けて、毎月“9の日行動”を創意を持って、より楽しく進めつつ毎年9月9日を“九条の日”としてイベントを企画することにしました。5月3日憲法記念日、11月3日憲法公布の日等がありますが、憲法を守る運動の中から |
![]() |
私の戦争体験 |
|
死臭充つ 街中通りはずれに来(く) |
|
桜木に寄り 炭になりし人みる |
|
1945(昭和20)年8月15日、日本敗戦が国民に知らされた2週間前の8月1日、私の住んでいた街は全焼した。空襲警報の最中、私と母は田園の方へ路を走って逃げた。頭の上を飛行機が飛び、ザーッと雨が降る様な音がして焼夷弾が降って来た。走っていた人々は路の両側にしゃがんだ。私と母は別々の端へ行った。私は大声で「母さん!母さん!」と叫んだ。母がよろよろと立ち上がった時、町の方から逃げて来た自転車に後ろから突き飛ばされた。アッと思って走り寄ると、母は肩が痛くて右腕全体が変だという。肩がはずれたのだ。すぐに母の持ち物を全部私が背負うと、三角布で母の腕を肩からつるす。三角布の使い方もよくやらされたが、私が本当に使ったのはこれが始めの終わりだった。
1メートルほどの用水路の側で人々は立っていた。私も母もそこの地面に座って街の方を眺めた。街は空を茜色に染めて燃えていた。 空が白みだし、人々はのろのろ動き出した。来た時並んでいた家は全部無かった。当然我が家も無かった。防火用水がぽつんと残り、ここが玄関だったと思われるところに私は立った。こんな小さな土地だったのかとおどろいた。井戸に投げ込んだ鍋類を引き上げ、真夏の太陽と焼け跡のほてりが残る街中を歩くよりなかった。お腹の異様に膨らんだ馬が横倒れになり死臭がムッとする。ようやく死臭が薄れ、街はずれの一番大きな川の桜並木の土手まで来てホッとしたとき、桜の木に寄りかかった人が炭になっていた。私はドキンとして足がすくんだ。丸坊主で黒衣をまとったと見える、どこも崩れていない人間だった。 私は16歳だった。8月15日は戦争が終わったと、母と手をとり合って喜んだ。 |
|
つくしの在住 M.Fさん |
|
|