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2014年8月 |
集団的自衛権容認の閣議決定に抗議し、いまこそ主権者の声を全国の草の根から |
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今こそ,私たちの運動を飛躍的に強めるとき | |
1.我孫子市九条の会は先の国会終盤,6月19日と21日の2回,我孫子駅北口・南口で「集団的自衛権容認」の動きに抗議する宣伝,署名活動を行った。延べ35人の会員の活動参加,署名120筆が集まった。ビラの受け取りもよく,市民の関心が高いことを肌で感じた。 7月1日,安倍内閣は【集団的自衛権】の閣議決定を行った。しかし,この決定は安倍内閣の孤立と反面での暴走を示した。 2.今,世論の多数は「集団的自衛権容認」に批判的だ。TV,新聞の調査でも55%から65%は反対,賛成は10%も減って30%台になっている。 安倍さんの暴走は自ら墓穴を掘っている。世論に背き,国会討論もなく,自公の与党だけの〃協議〃での閣議決定に「力」はない。 憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めている。さらに99条では天皇以下,国務大臣からすべての公務員に憲法を守ることを義務としている。 安倍内閣の暴挙は今後の関連法制定や予算,また,司法の場でも裁かれることになる。 3. 歴代の自民党幹部から,元法制局長官,元公明党幹部をはじめ,全国52の弁護士会がすべて反対している。閣議決定だけでは自衛隊も動かせない。予算も関連法なしには通せない。 「集団的自衛権」関連の法律 ・自衛隊法・防衛省設置法,国家安全保障会議(NSC)創設関連法,国民保護法 ・武力攻撃事態法,周辺事態法,海賊対処法,船舶検査活動法,国連平和維持活動(PKO)協力法 ※秘密保護法の関連法(共謀罪新設,通信傍受法=盗聴法 改定) ・・・17,8本にも及ぶ法律改正が必要となる。安倍さんにとって,ハードルは多く,高い。 |
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平和への願い・学びの会第2回・・・・・・・・・・・・・・・・・
「登戸研究所資料館」の見学会に参加して |
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5月22日、9条の会の中川美保子さんのお世話で、明治大学平和教育登戸研究所資料館を見学しました。明治大学生田校舎は、1950年旧陸軍登戸研究所の広大な敷地の約半分を取得して建設されものです。 敗戦後に証拠隠滅のため歴史から抹消された陸軍登戸研究所は秘密兵器の開発拠点としてさまざまな実験が行われていました。第1次大戦直後から密かに行われていた毒ガス兵器や諜報、防諜などに対応する資材、兵器の開発研究の流れを受け、1937年、神奈川県川崎市生田の丘陵地に陸軍の実験場が設立される。実験場はのちに「陸軍第九技術研究所」(秘匿名:登戸研究所)となり、太平洋戦争による戦乱の拡大で、最盛期には1000人に及ぶ所員が殺人光線、生体実験、毒物・爆薬の開発、風船爆弾、ニセ札製造など、多岐にわたる研究に携わったと言われています。 |
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▼展示物を見学して 実際展示物を見学して、登戸研究所が担った秘密戦のおぞましさを、まざまざと知りました。展示物は研究内容説明、開発機材などについて様々ありましたが,私にとって特に印象深かったもののみを書きます。 |
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○風船爆弾 実物のレプリカを見ました。風船爆弾は登戸研究所で、当初牛疫ウイルスを搭載する目的で開発されました。実際にはアメリカらの報復を恐れて菌は搭載されなかったのですが、生物・人体実験を経て兵器功化に成功していました。アジア太平洋戦争末期の1944年から1945年にかけて爆弾あるいは焼夷弾を吊り下げて、およそ9300発が放球されました。 ○スパイ道具・機材 登戸研究所第2科では、防諜、諜報、謀略、宣伝のためのさまざまなスパイ機材、資材の研究・開発を行っていました。小型カメラを仕込ませた、ライター型、かばん型、ステッキ型などを見ました。雨傘のように見える放火器具、缶詰に見える爆弾、万年筆に見える毒物注射器など、証拠を残さず謀略を行うことの出来る秘密兵器を見ました。 ○ニセサツ 中華民国国民政府の下の中国経済をインフレで混乱させるための、謀略の偽札を見ました。(展示で劣化するのでレプリカ)研究所内に印刷工場があり、高い塀で囲まれていたそうです。最近までその建物が残っていました。 ○石井式濾水機ろ過筒 中国大陸で飲料水確保のため731部隊長の石井四郎が開発し、陸軍が採用しました。細菌戦も計画されていた可能性もあり、濾水機が必要でした。私は数年前ハルビン731部隊資料館を見学したことがあり、そのとき現地の学者は、当時村の井戸に毒物が入れられたことがあると言っていました。 戦後すぐ、登戸研究所の資料はその多くが処分されてしまいましたが、口の堅かった元所員の口を開かせた高校生たちの調査活動、川崎市民たちの戦争の本質を追う地域の調査活動などを突破口にして、研究所で働いていた元所員の証言や手記などが集まりだし、そうした市民による活動の成果や関係者の熱意を受けて、明治大学は歴史教育・平和教育・科学教育のための施設として「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を2010年に開館。 |
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「たんぽぽデイサービス」で戦争体験をお聞きしました。〆3月22日 | |
〇志願した結果 昭和20年6月やっと入隊。15歳の志願兵でした。軍国少年ですから下士官になりたかったのです。横須賀に配属されて間もなく8月15日敗戦。上官たちは荷車を曳いて逃げてしまった。自分たちは、毛布2枚、軍服3着、靴下4つにコメを入れ、切符をもらって実家に帰された。昭和天皇始め、戦争を起こした人からお詫びをしてほしかった。 ☆3月10日は地獄 西小松川では、9日の夜からB29が焼夷弾をどんどん落とし、叔父と弟と3人で逃げたが小松川橋は木製なので、渡り終わってから燃え落ちてしまった。旧千葉街道では火ぶくれの子供がよろよろ歩いてきたが、自分たちが戻ってきたら木の下で死んでいた。だれも手を貸すゆとりがない。亀戸天神へも行ったが、総武線のガード下で、母子の焼け焦げた姿を見たし、壊れた防空壕から死んだ人の手や足が出ているのを見た。トタン屋根の下で蒸し焼きになって死んだ人、亀戸から小名木の分かれ道の所で死体を燃やしていた。かわいそうと悔しいのとが一緒になって何もできず苦しかった。猿江公園では逃げた人が大勢亡くなっている。(10歳) ◇布佐の様子 昭和19年3月8歳の時東京から布佐に疎開してきた。いつもお腹が減っていた。田圃は男手がないので休耕田だった。たんぽぽ、オオバコ、ハコベ、ニラなど土手で摘んでよく食べた。布佐は銚子から利根川を通って東京方面にいくB29の進入コースで、見ていると野田運河で左に曲がって東京方面に行った。栄橋の所で爆撃されたり、機銃掃射でやられた人もいた。我孫子で試し打ちしているように思えた。3月9日は普段と違う感じがした。戦争の時代は、天気予報がなく、国民は「知らしむべからず」の扱いだった。 ●今感じる事 NHKのドラマ「ごちそうさん」を見ていて違和感があるのです。時代考証ができていない。みんなぼろを着ていたし、本当に食べるものがなかった。戦争中はあんなじゃなかった。(みんながうなずいていました。) ★機銃掃射を受けた人、学生が稲刈りに動員されたこと、東京も畑を作っていたことなどの話をお聞きしました。 _______________________________________ 戦争についてのそれぞれの体験を8人の方にお聞きしましたが、当時の住んでいらした場所や、年齢によって体験が大きく違っていました。突然伺ったにもかかわらず、どなたもいっぱい繰り返し心に残っていることを話して下さいました。直接戦争に関わった人はいらっしゃらなかったのですが、子供の時の苦しかった思いや、戦争によって自分の夢を変えなければならなくなって、大人に対して不信感を持って生きてきた人など、戦争の残したものの恐ろしさを改めて感じました。そして皆さんの一致した思いは、「戦争は絶対にしてはいけない。国民が不幸せになる」でした。改めて、集団的自衛権容認で、憲法9条を変質させ「戦争のできる国」にしてはいけないと強く思いました。 (文責 N・M) |
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